香港の幸福宿

香港の九龍地区には何百ものゲストハウスが点在する。

点でビルを描いてみる。点で街を描いてみる。

その全ての点を繋げてみるとひとつの黒い塊ができる。

私の香港での目的は、かつて悪の巣窟と呼ばれていた九龍城砦に泊まることである。

1950年代から1990年代半ばにかけて、香港に流入してきた大量の移民は、0.03平方キロメートルの土地に12階建てのビルを造り上げ、スラム街を形成した。

しかし、この九龍城砦は1994年までに取り壊し工事が行われた結果、住民たちはこの狭い香港中へ散り散りになったという。

大陸から逃れ、今では独自のアイデンティティも形成された香港人たち。彼らはこの移住先である香港でも、苔が生えることなく逃げ転がり続け、安住の地を何世代もかけて求め続けている。

そんな私も香港人と同じく、早く苔の生える場所で落ち着きたいものである。

私の仕事はとても閉鎖的で、イラつくことが多いが、連休を指折り数えて待ち、一人で旅行にでることを楽しみに生活を送っている。

そこで今回は、香港に行ったことのあるパッカーなら誰もが知る九龍城砦の後継とうたわれる重慶マンションに泊まることを目的に、香港を訪れてみた。

ここは正直、香港であるのかと疑うことができるマンションである。

入り口からは、中東の香辛料の臭いが漂っている。私は相手の目を凝視する特徴のあるおそらくインドや中東の人達を無視し続け、奥へと進んだ。

気づけばこの場所に疑問をもつこと、居心地の良さなどを意識することもなく、既に私は前のめりになっていたのである。

たまたま空いていた中東系のゲストハウスでは、値段交渉で200香港ドル(3000円)に落ち着いた後、4畳程のスペースに二段ベッドが2セットあるだけの簡易的な部屋に案内された。

ジメつく香港。先程多量にテイクアウトさせられた多量のサモサと一緒に、私はやっと床につくことができた。

同室にいた欧米人は一日中PCでゲームをやっており、攻撃のターンではよく分からない母国語で叫んでいる。後にパッとしない中国人の若者も宿泊のために入ってきた。

二人共何の目的でそこにいるのかは分からない。だからといって興味が湧くような余裕もこちらにはない。

仕方ないので叫び声を子守唄にし眠りについた。

私はなんだか船酔いのような感覚で目覚めた。ベッドが前後に揺れているのである。下を覗くとその中国人がスマホをみながら仰向けで足をあげ、ギラギラと笑いギッタンバッコンの具合で前後に揺れていた。

私はどこでもすぐに酔ってしまう体質であり、既に船酔い状態になっていた。

イラついたので日本人らしく控えめに咳込んだり、モウヤメロ的な振動を与えてはみたものの、感じ取ってくれる器官はなさそうだ。

そんな出鼻をくじかれた初日を終え、翌日にはそそくさと宿を飛び出し、いわゆる香港のイメージというような界隈へとぼとぼ歩きだすことにした。

食指が伸ばされるまま、九龍の佐敦地区に入ってきた。

ここは香港でも特に古いエリアであり、労働者も多く、青空市場、屋台も多く賑やかな場所である。また、観光客は現地人の二倍の特別価格でお土産を買うことができる。

そこで私の目にふと飛び込んできたのは、『ラッキーハウス』という斜めに傾いたボロい看板である。日本語の表記から、ここが日本人宿であることは想像がつく。

このネーミングは、その時の私にピッタリであったのだ。

私はいつもガイドブックでは『地球の歩き方』を一冊持って旅行をするのだが、ペラペラとめくっていると、そこにこっそりと『ラッキーハウス』の住所が書かれてあったので安心した。

この看板の向かいにはいかにも香港らしく、いわゆる香港の写真の被写体・香港土産にもデザインされている郵便受けがあり、その奥の暗い階段を上がっていくと入り口がある。

香港は一つの建物にいくつもの家族や店舗が混在しており、そんな調子でここの隣にも、アジア系のサロンが入っていた。

私は前世のドラクエの感覚をワクワクを思い出しながら、ラッキードアを開けた。

するとそこには、まさかの上半身裸のおじさんがいた。

おじさんは汚いオフィスに座り、手渡してくれた名刺を見ると、どうやら店主らしい。PCも置いてあり、聞くところによると、もう30年も一人で切り盛りしているようだ。

内装は、日本人が置いていった本や地図が多量につめこまれた、パッカーならワクワクするような本棚。釘で打ちっぱなしになっている木製のドアや鉄パイプのベッド。二度見ならぬ、二度聞きするようなブンブンうなる扇風機。

三部屋に合計7~8人が泊まれるようになっている。

先輩達はここでどうゆう話をしていたのだろう。

偶然集まった仲間と沈没できた唯一の場所であったのか。

10分以内に起きた衝撃のせいで二の句が継げないが、その後もここの吸引力は凄まじく、幾度となく『ラッキーハウス』を利用していた。

旅のプランにどう頭をひねっても、ここに戻ってきてしまうのである。

ドミトリーは一泊100香港ドル(1500円で破格)のため、一人で別荘感覚で利用することも多かった。「香港 安宿」で検索し、まさかこの場所に辿り着いてしまったというアンラッキーな日本人と同室になることもあった。

私はもう常連である。香港に夜中到着であった時、「いつも泊まっている九原です。夜中に着いてしまったのですが、今晩泊めてください。翌日払います。」とオフィスに書き置きして寝てしまった。会えたのは翌々日、2日分の宿泊費を渡した。

その数ヶ月後、数名の大陸人が出入りする店舗(?)に『ラッキーハウス』は変わっていた。

あの看板はそのままであっても、おじさんのことを知る者はもう誰もいなかった。そして、今年度の『地球の歩き方』には『ラッキーハウス』の文字は無かった。

不動産の値段が翌月には数倍に高騰し、移転や廃業を余儀なくされる香港。ラッキーさんはどこへ転がったのか。

私にとっても、重慶マンションから逃げて、幸福にも辿り着けたこの宿。

転がる石に苔は生えない。

今頃どこかでもっさりと苔まみれになっているラッキーさんを思いながら、私は香港をあとにした。